映画祭@大阪の感想

関西queer映画際の感想をずっと載せていなくてすみません><
ちょっと過去のネタですが、いくつかに分けて載せさせてもらいます。

私が観て来たのは、「男子であること Boy
I
Am」というアメリカで作られたドキュメンタリーフィルムです。
3名のアメリカ人FTMがメインに出演し、胸オペ前のインタビューを中心に、ジェンダーの研究者や活動家などのインタビュー、また3名の胸オペ後、トランス後のインタビューを交えて、という内容なのですが、非常にジェンダーをからめた内容でした。
一言でいうと、難しかった。
GIDの映画、というわけではなく、たまたま出演者がGIDであっただけ、実質的にはジェンダー論の教材、という内容でした。
私は少しだけジェンダーについて学んだ経験があるので、おおよそのところは掴めましたし楽しめましたが、ジェンダーに馴染みのない友人は非常に分かりにくかったと言っていました。

それでは、非常に個人的な、映画の感想を述べさせていただきます。

今回の作品で、日本アメリカの環境の差を知ることが出来ました。
その1つは医療費の問題です。
日本では、FTMが治療を選択したら、胸オペに関しては1,2年以内に実行できる人が多いかと思います。
1年間みっちりバイトをすれば、手術費用も稼げるでしょう。
しかしアメリカでは、日本に比べて非常に医療費も高額なようで(支払方法に違いもあるかもしれませんが)、手術費用を貯めるのに何年も何年もかかって、やっと出来る、という状態のようでした。
(少なくとも、出演者たちはそのような環境下にあったようです)
ただ、すべての出演者たちが、手術を決意してから実際に手術が出来るまでの数年の時間があったからこそ、【自分にとって本当に手術が必要であること】や、【自分の今後の人生や生き方について】自分を見つめなおし、考えることが出来たので、実際に手術に至るまでの数年間があってよかった、というようなことを言っていました。
日本のGIDガイドラインにおける第1段階が、非常に慎重に、時間をかけて診断を行っているということ、中核群にとっては迷惑でしかないかもしれないけれど、それ以外にとってはそれこそ上に当てはまる”今の自分と今後の自分”を見つめなおす大事な時期に当たるのだと感じました。

しかし、アメリカではホルモン剤欲しさに強盗や万引きなどをして少年院や刑務所に入る人がいる、という専門家の話にはびっくりしました。
環境が違えば殺されることもありますが、日本はまだ恵まれた環境にあるんだなということを実感しました。

次に、アメリカという国では、性別の移行に人種の問題もからんでくるということを知りました。
3名の出演者うち、1名は黒人の方だったのですが、その人は
「自分が男になる(トランスする)ということは、『黒人の男になる』ということ。
これからは、夜道に人の後ろを歩いているだけで暴漢と間違われるから気をつけなければいけない」
と話していました。
日本には、日常生活の中であちらの国ほど「人種」という概念が存在していないので、このようなアイデンティティの持ち方というのはあまりないように思います。
男性としてのアイデンティティだけでなく、白人・黒人・ヒスパニックなど、【人種】+【男性or女性】としてのアイデンティティを有するというのは私には非常に複雑に感じました。

ただ【男になる】【女になる】という問題(トランスする、ということ)は、国に関係なくあります。
FTMには男性として育てられた経験や、生活した経験がないため、男性社会の規範や習慣というものは身についていないでしょう。
MTFについても同様のことが言えます。これは、自覚している性別うんぬんではなく、生活集団と生活習慣の話です。
私は以前、FTMだと主張する人が、女性に抱きついたりベタベタと接している場面にひどく驚いたことがあります。男性ではなく【FTM】だからこそ許される行為とも言えるでしょう。
男性として生活し、社会においても男性として存在したいと思うのであれば、合わせるべき性規範もあるのではと思います。
もちろん、それをよしとして生きるのも本人の選択ですが、相手や周りの人間がどう受け取るか、ということも無視できないのではと思います。

最後に、ジェンダーについて思ったことを述べます。
この映画を観て、ジェンダーという概念について、アメリカでは非常に研究が進められていることがわかりました。
ただ、「だから日本も追いつかなきゃ」という風にはまったく思いませんでした。
むしろ、なぜアメリカに追いつく必要があるのか?と思ってしまいました。

ジェンダー論の学問的な目的はなんですか?と以前大学の教授に質問したことがあります。
その時は
「身体的な差異があっても、性別的な差異はないことを明らかにして、性別に由来する相互の誤解をなくすこと」
というような答えをもらったと記憶しているのですが、これは1つの考え方に過ぎないのかな・・・。
研究者の中にも「(身体的な差異以上に)男女は違う」っていう頑なさを感じるんだけど、私だけでしょうか?
女性が女性としての視点から声を上げること、男性が男性であることを語ること、そういった『語りなおす』プロセスの必要性は充分に承知しているのだけど、その行き先をどこに定めているかによって『語りなおし』の効果も大きく変わると思うのです。

ジェンダー論がジェンダー学にならない由縁は、こういった目的の分散さにあるのではないかと思ってしまう。今だって時々、ジェンダー論の研究者=フェミニストと思われていることがあるし、女尊男卑が目的と感じる発言もある。
日本とアメリカでは文化が違う、土壌が違う。
それを超える、あるいは新たに生み出されるという展開が必要だと思いました。

学問が日常から離れたら意味が無いという考えを持っているので、今後の国内のジェンダー論の動向を静観していきたいと思います。

以上が映画の感想です。

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